認知症の家族を支えている人達の気持ちの持ちようとは?介護短歌でストレス発散

 

 

介護って突然、親が例えば認知症になったり、夫が認知症になったり、妻がなったり、そういう風にものすごく身近な家族がなるのを最初はみんなもう、どうしていいかわからない戸惑いだと思うんですけれども、番組で訪ねた方というのはある程度少し乗り越えるというのか受け入れるというのか…という方が多いので、そういう方にお会いして行くともう人生の達人だと思うんですね。現実を素直に受け止めて、足が不自由になったって言って、あたりまえですよね、最初は嘆いたり、ガンを告知された人のように、認知症の人だってほとんど回復はないわけで、長く症状を保つという考え方しか出来ないわけで、少しでも悪化、進行しないようにそれこそ三好春樹先生に教わって凄く印象的なのが、介護っていうのはいわゆる闘病とは違うと、つまり生活なんだってことなんですよね。もうずっと続くから、重い病気と1ヵ月、3ヶ月入院して闘病して、で回復して出て行くという話ではないからそういう意味で言うと認知症になった、脳梗塞とかで半身が麻痺になったりするともう一生そっから生活だってことなんですよね。そういう事になったときにもう受け入れるしかないっていう風に切り替えられてこられた方をたくさん見てきたんですね。だからそうしないと、前向きにならないとやっていけないっていう方達をたくさん見てきて、あ、もしかしたら介護だけじゃないのかもしれないなとだんだん思うようになって、それが人生にふりかかる、抗えない出来事。例えば身近な人の死もそうですよね。それはちょっと介護に繋がるかもしれないんだけれどももっと小さなことで言えば予期せぬ転勤命令とかね、会社の中で思わぬ、自分の思う仕事じゃないことを命令されるとか、あるいは若い人で言うと失恋とか、なんでー!?というようなことでも泣き暮らす時期がもしかしたらあるかもしれないんだけれど時が解決するというのかそれがいつまでも泣いてね、何で私だけこんな好きじゃない仕事しなければいけないんだー同僚は出世して行くのに…みたいなそういうことも全部含めて人生に降りかかってくる抗えない出来事を受け入れてそしてなおかつ前向きに、ちょっとついでに楽しんでみたいな、明るくやっていこうという人達が本当多いなと。それはもしかしたら、生意気ですけれど、介護ということを通してその方が人間的成長を遂げているっていうか、色んなのを見て調べたり本読んでて見てきたんですけどね。介護者のプロセスっていうんですかね?心の変化っていうのがあるっていうのを本を読んで見た事があって。

 

(ーー介護という現実を受け入れるには)

 

それこそアルフォンス・デーケンさんていう、死生学の上智大学の先生でもある方がおっしゃっている悲観のプロセスというのがあって、それはそれこそ家族とか身近な人が亡くなった時にその家族はその死をどう受け入れてくかっていう話なんです。それが最初はもう悲観して怒りとか、まずは受け入れられないから反発とか怒りがあって、その後諦めになってその後最終的に受容になるという、もっと細かく言うと何段階もあるんですけど、認知症になった夫に対して辛く当たるとか、否定ですね否定、大きく言うと。まず否定、現実を受け止められないからそんな馬鹿なっていう否定があって怒りがあって、諦め受容っていう風におおまかにいくと4つに分かれていくっていう、それを悲しみのプロセスなんで介護者も同じなんですね。大黒柱であの働き者だった夫が今認知症になって鍋から食べ物を掴むようなことを見て最初はお父さんやめてよと怒っていた妻が変わっていくっていうのをまさに取材させていただいたことがあって、それは心に残る介護短歌と繋がっていくんですけど。

 

(ーー介護短歌とは?)

 

認知症の夫を介護している70代の奥さんがいて、「風呂どうぞ 入るそぶりをして 入らず 弾けて飛ばす くそじじい」っていううたがあるんですね。これちょっと57577の形にはなってないんですけど。つまりこの介護百人一首っていうのがもともとは…簡単に説明しますかね。介護と短歌って最初ね、なんだろうって思われる方が多いと思うんですけれども、つまり今本当にニュースでもたくさん問題になっている介護うつとか介護ストレスとか介護による自殺とかあるいは介護によって苦しくなってお互い心中とかね、殺めてしまったりっていうような本当悲しい事件があるんですけど、結局その介護によるストレスな訳ですよね。それこそ一生懸命真面目にしようとする人の方がむしろ発散しないで相手は病気なんだし優しく接しないといけない、でも大変ですよね。その思いをそれこそなにしろ家族とか介護の話なんで、そう隣近所に、仲良しのお友達にいう訳にもいかず、かといって一番多い例でいうと夫を見る妻がいてそれを娘や近しい親戚にも言うとお父さんそんな風じゃないのにお母さん一人で言ってるとかね、よく症状が認知症だと相手にとって違う態度が出るっていうのがありますので、結局一番やってる介護者が孤立するっていう形が凄く多いという現状があると思うんですけど。そのなかで誰にも吐き出せない思いを紙に書いて吐き出そうというのがそもそもの介護短歌なんですね。介護日記でもいいんだけれど、どうせなら57577っていう31音という定型に納めることによって、例えば、ああ今日も上手く行かなかった義理の、姑さんとのお昼のやりとり、何で介護一生懸命しているし、お義母さんも素敵な人だったのに何で上手くいかないんだろう、もーーーっ!っていうのが腹が立つの5文字なのか、そうじゃなくて本当は上手くいってたんだよねー出来なくなってるの私の問題かもしれない…くやしいなとかね、とにかくこの悶々とした上手くいってない思いを人はなかなか言葉で発散、整理しませんよね?とにかく腹が立っている、なんかむかむかするっていうのをとにかく575に当てはめる作業っていう作業が、なんていう言葉が適切でどう言えば自分の一番の心の中のもやもやが表せるんだろうかっていうのを紙に書きながら対話する事で心の整理になると、それはもう小説だろうが色んな詩だろうが、文学で書くっていう事が一つのストレスとか心の整理に繋がるっていうのは昔からよく言われてると思うんですけど。まさに介護短歌って言うのはそのためにチラシの裏でも、なんかメモの端にでもいいので、もーー腹が立つ!って大声で山の中で叫ぶといいんだけど、山ってなかなかこの暮らしの中に無いからそういう意味で言うと紙に叫びを書き出すっていう作業なんですね。